14.奧書院
( 玉城町田丸 )
延宝5年(1677)田丸城主久野氏が建てた御殿の一部で、明治維新後民間に払い下げられていたのが、城郭内に里帰りした。玉城町文化財、お茶のけいこ等に使用しているが予約すれば拝観できる。
(玉城町、77、男)
旧三の丸御殿の一部、奥書院遺構
2010-4-6
田丸城三の丸奥書院
奥書院は延宝5年(1677),久野和泉守宗俊公のとき造営された。富士見門とともに,いまに残る貴重な田丸城の遺構。
もともとは田丸城内にあった三の丸御殿の一部で、明治維新に廃城になった際、民間に払い下げられ,明和町竹川の農家が住宅としていたもの。 なお、その他の三の丸御殿、城門8ヶ所、長屋蔵などは取り壊されている。
平成3年(1991)、所有農家の改築に伴い、314年ぶりに田丸城に里帰りし、お城広場の一角,村山龍平記念館の裏手に移築された。
宗俊公は久野家三代目。初代久野丹波守宗成は遠州久野の城主。関が原の合戦の軍功により、元和5年(1619)初代紀州藩主徳川頼宣に随伴し、田丸領を拝領。以来、明治に至るまで久野家の支配となる。
武家書院建築の面影
外部は改装されているが,内部御書院の上段の間,下段控えの間に江戸初期の素朴勇壮な武家書院の面影が残る。
典型的な書院つくりで、花頭窓(火燈窓)とよばれる書院窓が特徴。欄間は障子になっている。
久野家は橙紀州藩の家老職であったので、、田丸には城代家老が置かれ、一代のうち数度入部するにすぎなかったといわれ、この書院は城主が入場の際、居間や寝所の間として使われていた。
(以上旧三の丸御殿奥書院説明栞を参考)
詳細は
NEXTページ
をご覧ください。
内部見学は教育委員会に申込が必要。
下段の間から上段の間を見る
2010-4-6
床の間の掛け軸から
2010-4-6
拡大
江戸末期家老の掛図
上段の間の床の間にある掛け軸
。
作者は嘉永4年(1851)得水道人とある。
時の城代家老金森得水で水泳の達人とのこと。
年寄り3人で国束山に花見に出かけ、野点を楽しんだ様子を歌にしている。
拡大画面の現代かなずかい文は、玉城町教育委員会によるものを拝借。
あなたのオススメ意見をおまちしています。
意見を書き込む方は、「オススメする」からどうぞ。
玉城町田丸
田丸城大手門の前,村山龍平記念館の入り口からはいる。
となりに蒸気機関車C58の実物が展示されている。
HOME
/
アクセスマップ