戦国のむかしな。波切には城があった。そこの殿さま(九鬼澄隆)に初音姫という、そりゃあ賢くてうつくしい姫がおった。
あまりの美しさに志摩の国の一円まで名が知れ渡っていた。地頭らはなんとかして妻にもらいたい、と争って澄隆 に申し込んでおった。
ところが、父の澄隆はすでに甲賀地頭の籐九郎のもとに嫁がせることを腹に決めておる。
ある日、澄隆は初音に、籐九郎のもとにとつぐようきつく言いきかせた。初音は嫌がった。
「私にはお互い愛しおうた玄番允(越賀地頭)さまがおります。父上どうか玄番允さまと一緒にさせてください」
「いいや許さん。お前は籐九郎の嫁になるんや、ええな」
初音の頼みに澄隆は耳を貸そうともせなんだ。そればかりか、籐九郎のもとへ嫁がせる手はずをととのえておった。
それから数日たった。ある日の夜。初音はとうとう玄番允を慕って、みなが寝しずまったころを見はからい、静かに波切砦を抜け出した。そして、月明かりをたよりに、海ぞいを、越賀村へ走った。