知盛山久昌寺と平知盛
平知盛は壇ノ浦の合戦で源義経に敗れ、安徳天皇をはじめ平家一門の入水を見届け自らも
海に身を投じ果てた。
が、伝説によると知盛は、実は生き延び、平家の再興を願い、従者30人と共に、紀州の
南海を廻り、五ヶ所湾あたりから山越えをして、前山に隠れ住んだ。その後神宮長官の保護を
受け、北条時政による探索をのがれ、鷲嶺の峰をこえて菖蒲の里に移り住んだ。
その知盛の死後、菖蒲の墓地に御堂を建て菩提を弔ったのが、「知盛山久昌寺」である。
ここには「当地草創久昌寺殿従二位新中納言平庵知盛大禅定門」と書かれた位牌が祭られて
いる。
久昌寺は、壇ノ浦合戦の5年後、建久元年(1190年)の建立で、本尊の阿弥陀如来には、
承久3年(1221年)8月20日の胎内銘があり、西海に沈んだ平家を弔ってこの仏を造らせた
という文が添えられている。
阿弥陀如来は、仏師僧幸賢の作で、像の高さ97センチ、寄木造、木眼、漆箔像で昭和31年
(1956年)国の重要文化財に指定された。
昭和27年本堂改築の際、知盛の墓を発掘したところ、写経石数千個、短刀一振りと人骨
2体がみつかった。がこの人骨は婦人のものであった。
−参照:[市郷土史]
平知盛は、平清盛の四男で清盛の寵愛深く,順調に累進して従二位権中納言にいたる。武勇
にすぐれ,治承4年(1180年)源頼政を宇治で破り,翌年源行家を尾張,美濃に連破して功を
あげた。しかし寿永2年(1183年)源義仲と粟津で戦って敗れ西走。翌年の一ノ谷の戦でも
勇戦したが,1185年壇ノ浦の戦では,奮戦のすえ,平家一門の最後を見とどけたうえで海に
身を投じた。
平家物語には、〈見るべき程の事は見つ,今は自害せん〉と鎧二領を身につけて壇ノ浦に
沈んだと記されている。
「見るべき程の事は見つ」この世に未練はなしと、これほどの潔い猛将のイメージと、
平家の再興のためとはいえ生き延びた知盛のイメージとはまったく重なりません。
平家物語の記述が虚像かもしれず、いずれにしても後世の人の思い入れの差でしょうか。
平知盛 久昌寺阿弥陀如来像