宮川の流域ーー伊勢市、辻久留の浅間堤の鬱蒼とした樹下に古びた石像が祀られている。像というより石塊が重なっているような、判別しがたいものであるが、これは雨露にさらされた宮川治水の義人、松井孫右ェ門の顕徳の碑像である。

  口碑によると、孫右ェ門は、度会郡田丸在曾禰の里中勘吉の四男として生まれ、長じて山田の中島町字中野の風呂世古にすまう叔父、松井氏の養子となった。松井家は苗字を許された部落の指導階級の家柄であったという。彼が一身を犠牲にして真で、世に報ゆる志を抱いた動機は、ひっきょう氾濫の地、中島町の人となるに及んで決したのである。

 
 宮川は毎年々々の洪水を、その被災の程度の大小はあれ、繰り返した。田畑の荒蕪、住民の悲嘆はその極みにた達し、そのさま座視するをしのびなくなった孫右ェ門は、ひそかに人柱になることを考えた。古来より、城、橋、堤など、難工事には、しばしば人柱を用いて鎮護する手段がとられている。彼は自らそれに供しようと決意したのである。

  
ある年の堤検分の時であった。役人検視の案内に立っていた孫右ェ門は、 「今日の検分に当たっている住民代表の中で、衣類に一番継ぎの当たっているもの,汚れているものが、人柱になってはどうか」と提言した。ひとびとの動揺する裡に、その該当者は、孫右ェ門、その人であったのだ。……自ら人柱を買って出た彼の意思が、ひるみそうな筈はない。

  

祠内に安置された孫右衛門供養像
2006-4-2撮影

   当時の様子を、古文献は次のように記載している。

 
扨テ愈愈孫右ェ門人柱ニナルコトニ定マリシカバ、清身浄衣シテ堤防ノ破損セザル様に神仏ニ祈り,仏具ヲ携エ皆々ニ生別シテ入棺セシカバ,血族朋輩等涙ナガラニ告別セシモ成ルベク息ノ長ク保タンコトヲ欲シ、棺内ヨリ堤上マデ竹筒ヲ通シ、食物等ヲ入レテ埋棺、交ル交ル通夜セシガ初メ程ハ竹ノ筒ヨリ鐘ノ音聞コエシモ、其の音時ヲ経ルニ随イテ弱クナリ、三日目ニハ遂ニ聞コエズナリシカバ、最早往生セラレタルナラントシテ,泣ク泣ク其ノ筒ヲ抜キ取リシトイフ……

  後の人、この義人の遺徳を偲び、供養の石像を安置した。それが上掲の石像である。其の碑像も、年を経るに従い、まったく人心から忘れ去られていたが、大正4年9月、付近の青年層の自覚により、修理され、石像の台石に由来が刻まれ、広く世間に伝えられるようになった。(後略)
 (「宮川総合開発事業史」(s35発行)p47より抜粋