宮川の流域ーー伊勢市、辻久留の浅間堤の鬱蒼とした樹下に古びた石像が祀られている。像というより石塊が重なっているような、判別しがたいものであるが、これは雨露にさらされた宮川治水の義人、松井孫右ェ門の顕徳の碑像である。 口碑によると、孫右ェ門は、度会郡田丸在曾禰の里中勘吉の四男として生まれ、長じて山田の中島町字中野の風呂世古にすまう叔父、松井氏の養子となった。松井家は苗字を許された部落の指導階級の家柄であったという。彼が一身を犠牲にして真で、世に報ゆる志を抱いた動機は、ひっきょう氾濫の地、中島町の人となるに及んで決したのである。 宮川は毎年々々の洪水を、その被災の程度の大小はあれ、繰り返した。田畑の荒蕪、住民の悲嘆はその極みにた達し、そのさま座視するをしのびなくなった孫右ェ門は、ひそかに人柱になることを考えた。古来より、城、橋、堤など、難工事には、しばしば人柱を用いて鎮護する手段がとられている。彼は自らそれに供しようと決意したのである。 ある年の堤検分の時であった。役人検視の案内に立っていた孫右ェ門は、 「今日の検分に当たっている住民代表の中で、衣類に一番継ぎの当たっているもの,汚れているものが、人柱になってはどうか」と提言した。ひとびとの動揺する裡に、その該当者は、孫右ェ門、その人であったのだ。……自ら人柱を買って出た彼の意思が、ひるみそうな筈はない。 |
祠内に安置された孫右衛門供養像 |
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当時の様子を、古文献は次のように記載している。 |