54.春雨艦殉難記念碑   ( 鳥羽市相差町 )

伊勢志摩きらり千選
推薦のことば
B .明治44年11月、菅崎沖の暗礁に駆逐艦「春雨」が座礁、沈没した。この事故で44名が殉職死し、8名が
  相差の人々らの決死の努力により救助された。その後殉職した乗組員の霊を供養するため記念碑が建て
  られ眺望のよい記念碑公園(菅崎公園)として整備されている。毎年供養祭が行われている。(−、54、男)
A .明治の軍艦はるさめが殉難した時の救助(レスキュ−)顕彰碑の周辺を公園化して遭難現場の位島に碑を新
  しく建て後世に伝える。年々11月24日に殉難供養祭を執行している。(鳥羽市、70、男)
 供養祭会場現春雨艦艦長の供養の辞 2013-11-24
(ポインターをあて見える画像は)供養祭最後に唱われた和讃(ご詠歌)
春雨艦隊殉難供養祭
  2013年11月24日第102回殉難供養祭が、ここ相差町菅崎の突端の菅崎公園で行なわれました。→マップ
  関係者約70名と地元老人会の女性約60名画参加。

  始めに自衛隊による国旗および旭日旗の掲揚があり、鳥羽市長、町内会長など関係者の挨拶10人ほど。

  中でも、海上自衛隊の現はるさめ護衛艦(同名の春雨艦としては4代目)艦長の供養の辞は印象に残るお話でした。

  続いて神職により式典が行なわれ、犠牲となられた人々の御魂に哀悼の意が捧げられ、最後に相差町老人会女性60名による「はるさめ艦遭難和讃」が和讃碑の前で行なわれました。およそ9:30〜10:50の行事です

  102年前の事故以来、毎年この慰霊祭が続けられていることに、相差町の人々のこの事件に対する想いが並々ならぬことを感じました
駆逐艦「春雨」の遭難
  駆逐艦春雨(排水量381t)は、僚艦「磯波」「綾瀬」と共に1911年(M44)11月23日、土佐沖での海軍演習の後、横須賀軍港へと向かう途中でした。

  同日夜間に嵐に遭遇、避難のため的矢湾に向いましたが、24日午前0時菅崎付近に座礁し、司令大瀧道助中佐、艦長児玉兼三郎大尉を含め乗組員64名中44名が亡くなる大惨事になりました。

  僚艦は沖合いで嵐をしのぎ、翌朝、岸近くに目にしたものは春雨の煙突4本のみと記録は伝えています。
 

  このとき、長岡村相差と安乗村の村民が嵐の中、総出で救出にあたり、海から挙げた瀕死者を女性が交替で体温で暖め蘇生させる、などの必死の努力がなされました。

  写真中央、海中の岩礁に碑が立っているところが座礁地点だそうです。岸から100メートルもありません。多分、海の男達といえども、真っ暗闇と大嵐の中で全く状況がつかめず、疲労困憊し、命を失ったのでしょう。対岸は安乗岬です。


春雨艦遭難現場、対岸は安乗岬2013-11−24 拡大
           菅崎園地春雨展望台 2004-11-24
展望台と[とことわの鐘]
   2004年(平成16年)この菅崎公園にスマートな展望台が設置されました。

  ここ菅崎は的矢湾の入り口で、対岸は安乗崎です。見晴らしよく、湾内の安乗漁港、渡鹿野、的矢が遠望できます。

  眼下は岩の累々とする浅瀬で、遭難事故も致し方なしの感があります。

  展望台の上に付けられた鐘は「とことわの鐘」 と名付けられ、その由来が説明版になっていました
大切なテーマを語りかけていると感じました。

  この展望台の階下に展示パネルがあり、春雨艦事故当時の様子が判りやすく説明されています。

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インフォメーション  

鳥羽市相差町菅崎公園

マップ
 

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