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九鬼嘉隆の首塚《2003-2-17撮影) |
九鬼嘉隆の首塚
鳥羽地方に君臨した戦国武将九鬼嘉隆は豊臣・徳川の天下分け目の戦いに豊臣方につき、徳川の勝利により、この答志島和具で自刃して果てます。
その首を祀ったといわれるのがこの首塚です。 (拡大表示に現地説明板を紹介しています)
九鬼嘉隆の織田・豊臣時代の海戦における目覚しい働きと同時に、この結末の哀れさが鳥羽の人々の嘉隆に対する愛着となっているのかも知れません。
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鳥羽の海をいつも眺めて
和具漁港の左に伸びる築上(つかげ)岬の頂上近く、目立つ木立が首塚のあるところです。
嘉隆が生涯を過ごした鳥羽の海が見渡せる場所を選んだ家臣達の心情を偲ぶことができます。
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(2003-6-5撮影) |
九鬼嘉隆の胴塚(写真は鳥羽市提供2001-1-1) |
嘉隆の胴体を葬った墓は胴塚として和具漁港近くの街中にあります。
墓の左隣には切腹をしたといわれる洞泉院跡の石碑も見えます。 (拡大表示に胴塚の現地説明板をいれました)
また近くには、切腹の際の刀の血を洗ったといわれる「血洗いの池」などもあります。
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答志町和具は、戦国時代の鳥羽城主であり、九鬼水軍の将九鬼嘉隆の終焉の地。自刃した洞仙庵の近くに胴塚が、鳥羽城を望む築上岬山上に首塚がある。(県文化財)(鳥羽市、67、男)
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