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ともやま展望台近くで2004−5−21撮影 |
橋爪重兵衛の庵跡の碑
橋本重兵衛は幕末に、船越を襲った大飢饉の際、村を救った郷土の偉人です。 大王町のともやま展望台の少し手前の道路脇に重兵衛の庵跡の碑があります。
碑の裏書から推察すると、橋本重兵衛は1818〜1878年の人ですが、この時代、わが国は1830年代に全国的に飢饉に見舞われ、さらに1854年(安政元年)に起きた遠州灘の海底大地震の津波により志摩地方沿岸は大被害を蒙っています。
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藷(いも)作りの元祖
碑文を紹介しますと 「時は幕末、村は地震と津浪に襲われ、飢饉が続き生活は難渋を極めた。翁、戸長となるや登茂山の開墾に着手、私財のすべてを尽くし各戸平等に五畝歩の畑を無料分与し、食糧生産を指導した。
明治初年、自ら悟るところあり政治公職より退き、四国巡礼遍路の旅に出る。偶々種藷が手に入り、藷作りの元祖となられた。この教えにより村は幾多の飢饉から救われ隣村よりの羨望の的であった。
その徳や計り知れぬものがある。惜しくも家庭に恵まれず、登茂山の山小屋に独り住み、農を倶とし、人知れず成仏していった。 時に明治十年八月、六十歳であった。」(句点は筆者が追加)とあります。
この碑は1979年に木で建てられ、1984年に現在の黒御影石なったようです。
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江戸中期に船越が大飢饉となった時、戸長として私財をなげうって開墾し、食料生産の指導をして村を救った。(大王町、54、男)
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