131.越賀隼人と越賀賀城砦の跡
( 志摩市志摩町越賀 )
越賀隼人 :江戸時代、豊臣秀吉の水軍として活躍した。越賀で唯一歴史に名を残した人物だ。尊敬する。
(志摩町、17、女)
越賀城砦跡:九鬼義隆の猛攻に地域の豪族が一致団結し3年もの間籠城した。(永禄14年に和睦)
夕暮れ時、隣の和具地区から越賀地区方向に向かって走ると夕焼けの中に太平洋に突きだした
城山が
シルエットになって浮かび上がる姿は戦国時代を彷沸とさせます。(阿児町、32、男)
普門寺にある越賀隼人三代の墓
2010−11-8
越賀隼人三代の墓
志摩国は、神領や醍醐寺三宝院領などが多かったが、地侍が成長し、室町時代末期から戦国時代にかけて、各地に割拠した。
越賀の越賀隼人(佐治隆俊)もその一人であり、志摩十三人衆に数えられ、北畠氏の麾下にあった。
しかし、永禄11年九鬼嘉隆の攻撃にあい、3年の戦いの後、降って九鬼氏の家臣となった。
以後、三代にわたり九鬼氏に仕え豊臣秀吉の朝鮮戦役や幾多の戦役に、加わり、水軍として手柄を立てた。
写真は越賀の普門寺境内にある墓で、左から初代越賀隼人隆俊、その妻、二代隆政、その妻、三代隆春、その妻、の順に並んでいる。
越賀城砦跡
志摩町越賀の、熊野灘に突き出した小さな半島
、
それが越賀隼人三代の城砦跡である。城跡は広くはないが海側三方が断崖をなし、天然の要害になっている。(ただし現在は海岸を堤防がまいている)
鈴木敏雄氏の「越賀雑記」では、現、県道沿いに東西の浜を結ぶ深い堀があり、城跡と陸地側とを隔てていたこと、城跡内には3箇所井戸の跡があったことを指摘している
。
(
城跡は現在は個人所有で畑地になっている
。
)
なお、城跡の西側にある普門寺は曹洞宗のお寺で、三代隆春が父隆政の菩提のために建立した寺である。寺紋が
桧扇(或いは七本骨扇)
で越賀領主の家紋と同一である。
熊野灘に突き出した小さな半島2010−11−8
1550年ごろの鳥羽・志摩の土豪たち
拡大
九鬼嘉隆と3年戦った話
前出の「越賀雑記」によれば、
足利末期の戦国時代、鳥羽から志摩にかけては左図のような土豪たちが割拠していたが、波切の九鬼嘉隆が頭角を現し、この地方を統一すべく動き、各地で戦いが行われた。
これに対し越賀玄蕃允隆俊(後の隼人)は1566年(?)安乗、国府、的矢、和具などの土豪と連合し、越賀城を根城に九鬼嘉隆に対抗した。3年間戦ったが決着がつかず、1569年(永禄14)嘉隆と和睦し、九鬼の麾下になったという。
以降、初代隆俊は九鬼の家臣として、1571年(天亀2)信長の大阪本願寺の戦いに臨み、海戦で手柄を立て、恩賞にあづかる。1592年秀吉の命で、朝鮮出兵(文禄の役)し、水軍として活躍。1594年没。
二代隆政(1564〜1614)は1600年(慶長5)関ヶ原の役で、守隆(九鬼嘉隆の子)の麾下として東軍に付き、西軍側(嘉隆)を追討、戦功を上げる。 領地は越賀、御座、鵜方1800石。
三代隆春(16003〜1680)は1614年大阪冬の陣に11歳で出陣。妻は九鬼守隆の娘。その後、隆春は弟六兵衛と知行で争論となり、志摩を捨て綾部(現在の京都府)に移る。
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