29.沢村投手   ( 伊勢市 )

伊勢志摩きらり千選
推薦のことば
沢村栄治氏。平成7年1月16日(月曜日)付け中日新聞の記事あります。(大内山村、83、男)
伝説の火の玉投手
 沢村栄治(1917―44)
  三重県宇治山田市(現伊勢市)生まれ。1934年(昭和9)秋、京都商業5年生で全日本チームに選ばれて、来日したアメリカ大リーグ選抜チームと対戦したときベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグらの超一流打者に対し好投、1対0で惜敗したが、この善戦の模様は今日まで語り伝えられている。36年、プロ野球の公式戦が始まると巨人軍のエースとして活躍。37年春24勝4敗で、初の最高殊勲選手となる。大きなドロップと速球は、今日まで彼以上の球威を示した者はいないといわれる。兵役に二度とられたため、巨人軍では実働5年間、登板数105試合、62勝22敗、通算防御率1.71。 1944年(昭和19)12月台湾沖で戦死。
  1947年(昭和22)彼の名を冠した「沢村賞」を制定、一時セ・リーグの投手のみを対象としていたが、現在はパ・リーグも対象として、該当者のない場合を除き優秀投手に毎シーズン贈ることにしている。その背番号14は巨人軍の永久欠番である。1959年(昭和34)第1回目の野球殿堂(野球体育博物館)入り。--スーパーニッポニカ より

  沢村投手の少年時代
 日本プロ野球史上初の最高殊勲選手で「不滅の大投手」といわれた沢村栄治が投手としての才能を現し始めたのは、明倫高等小学校の野球部時代からだ。
 大正も後半に入ると、各小学校に少年野球が普及し、日中戦争が始まる昭和10年代の半ばまで、宇治山田市でも盛んに対抗試合が行われた。中でも、強豪明倫と厚生の試合は市民の間でも人気を呼んだ。
 沢村は昭和6年、野球部ができて間もない京都商業に、引き抜かれて入学。8年から9年にかけて春夏3度の甲子園出場を果たす。
      --伊勢市編纂「歴史と人と」より

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  沢村栄治の墓 (伊勢市岩渕町一誉坊墓地)
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切手になった沢村投手
郵便局の切手にもなっています。20世紀のデザイン切手第8集は沢村投手を中央に乗せています。
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父の思いで・・・
沢村投手は明倫小学校 私の父は厚生小学校。
2年上の沢村投手の話はよく父から聞きました。
沢村投手がいる間 厚生は勝てなかったと!
京都商業に行ってから 厚生の天下になったそうです。
若くして 戦死されて 惜しいですね〜
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インフォメーション  
   沢村栄治の墓所は伊切歯の中央郵便局の裏手にある一誉坊墓所にある。
 

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