その歴史ー灯台の説明板から
  ここ大王崎は志摩半島の東南端にあり、遠州灘と熊野灘の荒波を二分するかのごとく突き出しています。
 昔から海の難所として船人たちに知られており、ここで難破する船はあとを断たず、
「大王の沖で難破しても船主は船頭にその罪を問わない」という言い伝えがあったそうです。

 そのため早くから灯台の設置が望まれていました。しかし建設の計画は早くから起こっているにもかかわらず実施にいたるには遠く、その後も大正2年にサンマ漁船が遭難し一瞬のうちに51名もの命が奪われました。

 そして大正6年にも当時の日本海軍が誇る3000トンの巡洋艦「音羽」が、この沖の大王岩に激突、座礁するという事故も起こり、灯台建設は急務となりました。

 しかし大正12年の関東大震災によって各地の灯台が倒壊し、その復旧には大正15年までの歳月を要しました。そのため新設灯台の建設には着手できず、ようやく昭和2年、震災復旧後の新設灯台第一号として念願の大王埼灯台が同年10月5日に点灯を開始しました。

 当時の鉄筋コンクリートの灯台は角型が主流でしたが、この大王崎灯台は円形白塗りで下部には扇形の二階建て属舎を持つ斬新な設計で、他に例を見ない立派なものでした。

 その後灯台は太平洋戦争中、米軍艦載機の機銃掃射を受け、灯篭、レンズ、灯器に大きな被害を受けましたが灯塔は僅かに弾痕をとどめる程度で破壊を免れました。

 そして昭和53年に半世紀ぶりに大改修を行い現在の姿となりました。灯台の業務面でも昭和29年に大王崎無線方位信号所が新設され、翌30年には船舶通報業務も行っています。

 また昭和41年には大王崎大王岩照射燈が併置され、300万カンデラの光度で大王崎の北東にある大王岩を照らし、付近を航行する船舶に注意を促しています。
施設の概要ー灯台の施設説明板から(抜粋)
  この灯台は、赤い光と白い光を交互に出していますが、更に付近岩礁の方向については危険を知らせる赤い光を出しています。
  またこの灯台には電波の灯台(レーマークビーコン)が併設されており、他に無線電話を利用して付近海域の気象海象の状況を知らせる船舶気象通報(テレホンサービスでも聞けます)を実施しています。
                                 
社団法人  燈光会