河崎音頭

 河崎音頭は享保年間(江戸中期)に作詞奥山桃雲(御師)、伊藤梅路(俳人)、作曲鍛冶屋長右衛門に
よって作られ、その数約200といわれています。その内、朝熊町河崎踊りを守る会では現在のところ
見揚がり枕、赤物盡、乗合船、道成寺の4曲を保存し発表しています。
 河崎踊りを守る会の音頭研修部長である橋本理市さんがまとめられた資料を拝借して、4曲のうちの
一曲の歌詞と解説(一部)を、ご紹介しましす

身揚がり枕

(1)身揚がりは我に努めて我儘の うたたね枕邯鄲の 夢の栄華を裏かへて
   恨みかずかず葛の葉の

《言葉の解説》
身揚がり…遊女が自分で揚げ代を払い、休養をとったり、情人と会ったりするため、客をとらないでいること
邯鄲(かんたん)…中国河北省南部の都市。戦国時代趙の都として最も栄えた。華北平原と山西の丘陵地帯
         を結ぶ交通の要地
邯鄲の枕(夢)…貧乏で立身出世を夢見ていた盧生という青年が趙の都邯鄲で呂翁という仙人から栄華が意
        にままになるという枕を借り、転寝をしたところ、富貴を極めた五十余年の夢を見たが、覚め
        てみると炊きかけていた栗が未だ煮えないほどの短い間であったという。枕既済撰「枕中記
        の故事。人の世の栄枯盛衰のはかないことのたとえ。
裏かへて…裏腹に、反対に
葛の葉の…(枕詞)葛の葉が風に吹かれて白い裏を見せるところから裏(うら)と同音の言葉「恨み」などに
     かかる。


《現代語訳》
   わがままを言って揚げ代を納めて休みをとり、邯鄲の夢を見ようと思って
   枕をしいて寝ては見たが、それとは裏腹に風に吹かれて裏かえる葛の葉の
   ような人の心の裏切りの恨みがかずかず増すばかりだった。


(以上が身揚がり枕の1番の解説で、以下は2番以下の歌詞です。)

(2)ふわふわ遊ぶ玉の緒は うつらうつらとうつつか夢か 廓たちまちえん王の 
  下屋敷かと思われて 
(3)桶ふせのそば差し足に 地獄めぐりの駕(かご)のうち とりハものかわきぬぎぬの
  わかれにこぼす空涙 しづくつもりてさんずがわ
(4)夢に思わぬ人見れば 枕ならべし顔ならで 見る目かぐ鼻寝ずの番
(5)廓にかわるからくりの 仕舞太鼓のはんじょうは 千里もひびくへ

(以上  「河崎音頭の起源と保存について」 河崎踊り守る会 音頭研修部長 橋本理市  より)

囃子について

 河崎音頭の合間に囃子が踊り手、皆で歌われます。この囃子の歌詞は七七七五の26文字の形を
とっています。内容も軽い俗謡です。
 現在志摩地方の盆踊り歌や富士講の道中歌などはほとんどがこの形式で、また歌詞も共通なもの
がかなりはいっています。ある時代の全国的な流行を取り入れたのでしょうか。例えばよく見かける
ものに

     ・ 伊勢は津でもつ 津は伊勢でもつ 尾張名古屋は城でもつ
     ・ 清水港は 鬼より怖い 大政小政の 声がする
     ・ 富士の白雪 朝日でとける 娘島田は 寝てとける


等があります。