210.南張、湯夫池と井上太市   ( 志摩市浜島町南張 )

伊勢志摩きらり千選+
                           湯夫池と堰堤(右) 2014-6-19
            (ポインタを当て見る画面は)堰堤から見下ろす南張の田園風景
満々と水を湛える湯夫池
  湯夫池(湯夫の谷池)は志摩市浜島町南張の西北端にある人造灌漑池である。→マップ
  面積1町5反歩あまり、現在も南張町の田畑を潤す重要な水源である。

  1845年(弘化2)から3年間、この造成に率先して当たったのが、越賀村村長、第五代井上太(多)市、本名井上佶啓(みつひろ)である。

  彼は当時の17ヶ村を束ねる大庄屋の地位にあり、鳥羽藩主の命により、造成を行なっている。

  この大事業完遂のため、井上太市は行政手腕を発揮、多額の資金を借り、私財も投入し、力の限りを尽くして、この灌漑池を完成している。

  当時、1832年(天保3)以来、日本は全国的に大凶作に見舞われ、志摩も大飢饉に喘いでいた。池造成後の1852年(嘉永5)の大旱魃の際は南張村はこの池によってやっと難を逃れたという。(志摩町史)

→参考:郷土志摩25号「越賀村往昔の偉徳を偲びて/小川久五郎」(A)

井上家への感謝状
  1949年(昭24)南張村は終戦後の勤労感謝祭に先覚者に対し、報恩感謝の祭典を営んでいるが、右の写真が祭典の際の南張村からの井上家への感謝状である。

  この感謝状から、事業がいかに大規模なものであったか、そして南張村にとっていかにありがたかったを、伺い知ることができる。(→拡大を参照されたい)

 
  尚、初手の池の広さは東西40間、南北33間。堰堤は長さ30間、高さ7間といわれる。(浜島町史)

  後年諸所に水漏れが出て1938年(昭13)に大修理を行ない現在の姿になっている。堰堤の大きさは長さ20(40?)間、高さ10間のコンクリート製とのこと。(郷土志摩35号[湯夫の谷池由来記/山崎英二」)

              井上家への感謝状 2014−3−6拡大
                               末吉講名前控帳2014−3−6
優れた行政手腕
  当時の鳥羽藩は多額の借金を抱え、資金の余裕はなく、井上太市は村の公的費用の捻出のため「講」を積極的に活用したことで知られている。

  「講」とは多くの人間から資金を調達し、その金利を資金として利用する方法であるが、彼が運営したのは万年講と末吉講である集めた金で公債を購入、その金利を使っている。

  萬年講の記録では道路の改修3件、小学校の新築での寄付2件が見られる。

→参考:郷土志摩25号「越賀村往昔の偉徳を偲びて/小川久五郎」(B)

  一方、末吉講では個人を対象に、利子を年一度のくじの賞金とし、当たった者は田畑の修復に当てたらしい。目的はひとえに、作物の安定した収穫、増収にあるようだ。末吉講の趣旨説明部分を活字化した資料を以下でご覧ください
→参考:郷土志摩25号「越賀村往昔の偉徳を偲びて/小川久五郎」(C)
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